グイノ神父の説教

 
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        年間第2主日  B年 2021117  グイノ・ジェラール神父

1サムエル3,3-1019  1コリント6,13-1517-20  ヨハネ1,35-42

 今日の日曜日の朗読は、人が神を見つけるために何をしたらよいのかを教えています。このように年老いた祭司エリヤは、幼いサムエルに神の言葉に耳を傾けることを教えました。同様に、洗礼者ヨハネは「神の小羊」であるイエスを指で()し示しました。聖パウロは自分の体を「神の神殿」として重んじるようにコリント教会の人々に教えました。こんにちでも私たちの果たすべき使命は同じです。人々が自分の心の奥底や日常生活の出来事の中で神を見つけるように私たちは謙遜と尊敬をもって教えるように召されています。

 私たちは、本当はよく知っています。神は私たちの心に隠れているので、神を見つけるために自分の内で邪魔をしているものをたくさん取り除くことが必要です。ソロモン王の知恵は、彼が神に「聞き分ける心」を願ったことでした。ソロモンは自分のために長寿や富、あるいは敵に対する勝利を求めませんでした(参照:列王上39-11)。知恵をもって年老いた祭司エリヤは、若いサムエルに心で神の声を聞き分けることを教えました。ですから、大人になってサムエルは、イスラエルの民に神の望みと意志を知らせ伝えることができました。

 聖パウロの手紙は、コリント教会の人々に彼らの生き方と彼らが宣言する信仰を結びつける不思議な繋がりを見せようとしました。神を捜し求める人が神を見つけるためには、どうしても自分の生き方と自分の宣言する信仰を一致させるように努力しなければならないからです。

 今日の福音の個所によって、イエスと出会うためには、先ずイエスに従うこと、そして時間をかけて彼の話を聞くこと、次に彼のそばに留まることがとても大切だと聖ヨハネは教えています。なぜなら、イエスの直ぐ傍留まることによって、自分が愛する他の人々をイエスに紹介する希望が自分の内に生まれるからです。このようにしてイエスと出会った洗礼者ヨハネは、自分の弟子たちをイエスの所へ遣わしました。そしてアンドレ、ヨハネ、フィリッポは自分たちの兄弟と友のナタナエルをイエスに紹介しました(参照:ヨハネ140-47)。私たちもキリスト者になったからこそ、他の人々に神への道を示す責任があります。ところで私たちはその務めを充分に果たしているでしょうか。私たちはいったい誰と自分の信仰と希望を分かち合っているでしょうか。イエスを発見したからと言って、それを自分だけの中に利己に隠してはいけません。むしろ、聖アンドレと聖フィリッポにならって「私たちはキリストを見つけました」と宣言することができる人になりましょう。

 ヨハネの福音の中で、イエスの最初の言葉は次のようです。「何を探しているのか」そして「見に来なさい」という2つの言葉でした。キリストの最初の弟子たちの証明を説明するために、ヨハネは簡単な動詞を利用しました。それらは「探す、見つける、伴う、見る、留まる、従う」です。人生のあらゆる出来を通して神を捜し求めること、神を見つけて傍を歩み、留まること、心と魂の目で神を見ること、平和のうちに神の現存を味わい、神の後に導かれるところまで歩むこと、これこそキリスト者の使命と生き方です。

 私たちはよく知っています。神は全人類の歴史の中におられることを。典礼が紹介する毎日の言葉の中にも神がおられます。また教会の秘跡と私たちの心の奥底におられます。受けた洗礼によって私たちはキリストの体となったので、「キリスト者」と呼ばれています。ですから、今からのち神の命は私たち自身の命になりました。自分と隣人の内に、そして世界の出来事の内にも神を捜し求めましょう。この所でこそ必ず神を見つけること、神を仰ぎ見ること、神の現存を深く味わうことができます。アーメン。

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     年間第3主日 B年 2021124   グイノ・ジェラール神父

      ヨナ 3,1-510      1コリント7, 29-31      マルコ 1,14-20

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。この言葉でイエスは福音宣教の使命を始めました。イエスの教えの内容は簡単です。神の国は人々の間にあることを信じて、回心した心で神の国を歓迎することです。しかし、信仰とそれに続く回心は、二つの違った行動ではなく、むしろ同じ行動の二つの特徴です。回心は最初に己から抜け出すという「自己超脱」という消極的な行動を起こします、しかしこの行動は積極的かつ建設的になって、信じる人に特別な使命や人生の方向性を与えます。このように、ペトロとアンドレ、ヤコブとヨハネはイエスのメッセージに心を開いて彼に従うためにすべてを捨てました。それゆえ、キリストの証人となる恵みと使徒の使命をイエス自身から受けました。

 同様に、ニネベの人々はヨナの言葉を信じて、神の呼びかけに心を開いて、回心したので自分たちの命を守り、アッシリヤ人の都であったニネベの破壊を回避することができました。そして、何よりもまず、異邦人であった彼らは神の分け隔てしない赦しや哀れみや愛の豊かさを体験することができました。神はすべての人、ご自分の信仰を分かち合わない人々でさえも、とても大切にすることをヨナの物語は教えています。

「福音」と訳された単語はギリシャ語で「喜びで満たすい知らせ」を意味しています。神の国はこの喜びの完全さの現れです。確かにイエスにおいて神の国と共に神の喜びが完全に人々に与えられています。イエスに聞き従う人は、必ず誰も奪うことのできない完全な喜びを見つけるからです(参照:ヨハネ16,22)。救いのい知らせを信じることは人を新しい状況に置き、神との個人的な繋がりを与え、その結果すべてが神と自然に結びつくのです。

 死が命を奪う前に、人がその命を与えることができると最初の4人の弟子たちが私たちに教えています。命を与えることだけがこの命を救うことができるからです。「時は迫っています」(参照:1コリント7,29)と聖パウロは忠告しています。ですから神ご自身以外の物事を捜し求める時間を無駄にしないように気を付けましょう。私たちにどうしても必要な物事を神はよく知っておられ、私たちがそれを願う前に神は必ずくださるとイエスは約束しました。(参照:ルカ 12, 30-31) 私たちが知っている「この世の有様は過ぎ去る」と聖パウロは忠告しています。そういう訳で神の国を歓迎するように、また上にある、永遠にとどまる物事を捜し求めるように(参照:マタイ6,23、コロサイ3,1-2)私たちは誘われています。

 事実、回心することは、ある物事から背を向て、もっと好ましい物事を選ぶことです。問題は、失うものがなんであるかを知っているのに、未来何を与えるかが全く分からないことです。そうであれば、神に対する揺るぎない信頼を示すことは大事です。そう言う訳で、回心する事と信じることは、ただ
同じ一つの行動です。日常生活と信仰生活に対して、私たちが何を他の物事よりも大切にするかについて自問する必要があるのではないでしょうか。それは具体的には、家庭の雰囲気、出来事、健康、快適な生活、友だち、楽しみ、神への飢えと渇き、祈り、人の世話やもてなし、霊的な読書、聖書を読むことなどです。もちろん、皆がキリストの弟子たちのような決定的な選びをすることはできません。しかし、私たち一人ひとりは、望めば自分の人生に今までより広い場所を神に与えることができるのです。

 神の国はここにある、わたしたちの間に近くに。このよい知らせを信じて、受け止めるようにお互いに励まし合いましょう。実際、主の喜びが私たちにとって「喜びの城壁」(参照:ネヘミア8,10)となりますように。アーメン。

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      年間第4主日 B年  2021131  グイノ・ジェラール神父

         申命記18,15-20    1コリント7, 32-35   マルコ1,21-28

 カファルナウムの会堂でイエスは神の言葉について教え始めました。会堂で教えることは、ヘブライ語を読むことが出来る大人の役割でした。しかし聞く人々を驚かせたのは、イエスは権威をもって教えていたことです。イエスは人を解放し、新たになることを権威をもって教えています。イエスは昔の預言者のように聞いた神の言葉を繰り返して人々に伝える人ではありません。イエスは預言者よりも偉大な方です。なぜなら、イエスは神の言葉ですから。イエスは自身が救いのい知らせであり、人を癒し、自由にし、救う「命の言葉」です。そのことは彼のすべての言葉と行いがはっきりと現しています。

 また、イエスは「永遠の命の言葉」です。こんにちでもイエスは昔と同様に、力と権威をもって絶えず命の言葉を教え、繰り返し、聞かせます。そういう訳で、神が私たちにいわれることをよく理解するために、私たちは聖書(旧約聖書も新約聖書も)を読むこと、それも絶えず繰り返して読むことがとても大切です。事実、聖書を読むたびに、あるいはミサの時に聖書の朗読に耳を傾けるたびに、イエスは私たちの心に直接的に日本語で語りかけて来られます。

  カファルナウムの会堂で悪霊に捕らわれている人がいました。この人は自分が宣言する信仰に対して忠実ですが、悪霊は彼の心が完全に神に開かれることを邪魔しています。誰であろうと例外なしに皆、良いものと悪いものが混ざり合った心を持っています。そのせいで、聖パウロが今日教えているように人は完全に神に自分を委ねること「ひたすら主に奉仕する」ことができません。

 悪霊に取りつかれた人は、自分を支配する悪霊と自分の心の奥底に神を一生懸命に捜し求める信仰の間で引き裂かれています。実を言えば、彼は内面的な平和と一致を失っています。その理由で彼はもはや「私」と言わずに「われわれ」といっています。「我々を滅ぼしに来たのか」と。イエスこの哀れな人を見たとたんに悪霊が叫び始めました。しかし、イエスは悪霊の叫びを通して、ずっと神に愛されているこの人の苦しみの叫びを聞き分けます。「黙れ、この人から出て行け」というこの言葉こそ愛で満たされている解放する言葉です。権威を持つこの言葉のおかげで、自由になった人は内面的な平和と一致を持つ者に生まれ変わることができるのです

 ですから、キリストの権威ある言葉が私たちも解放し、新たにすることを承諾しましょう。イエスの言葉を聞きながら、神に完全に開かれるために必要な内面的な平和と一致を強めたいと思います。私たちはよく知っています。悪は恐ろしい神秘と事実として私たちの内に住んでいて、それから逃れることはとても難しいと言うことを。そのために私たちは主に向って叫びます「主よ、急いで助けに来てください。誘惑に陥らせず、悪からお救い下さい」と。イエスが私たちを救う愛と権威の言葉を聞かせるように、そしてこの言葉が私たちの内に深く刻まれるように絶えず願いましょう。

 またこのミサ祭儀を通して、私たちがイエスのそばに近寄るようにお互いに祈り合いましょう。謙遜に自分の魂と人生の傷、そして身体的、精神的、霊的なあらゆる病気が自分の内にあることを、私たちの傍におられるイエスによく見せましょう。慈しみと愛の力によって、イエスは私たちを癒し、自由にし、神に栄光を与えられる、新たにされた生き方に導くことを固く信じましょう。アーメン。

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    年間第5主日 B  202127   グイノ・ジェラール神父

    ヨブ記 7,1-46-7  1コリント9,16-1922-23  マルコ 1,29-39

 教会の使命は、キリストに従って全人類の苦悩の叫びに耳を傾けることです。この叫びは、自分の人生の意味も分からないヨブの叫びと同じです。世代にわたって数えきれない試練を通して、全人類はこの苦悩の叫びを神に何度も繰り返し叫び続けています。福音のメッセージを伝えながら、人々の抱えている問題に気を配った聖パウロは、キリストに倣って「だれに対しても自由になって、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました」。私たちも、イエスを見ながら私たちにゆだねられた使命を理解することができるのです。

 イエスはあらゆる病気を治し、多くの悪霊を追い出したと福音書は述べています。全人類の惨めさと苦悩に直面して、救いの良い知らせを伝えるためにイエスは苦しんでいる人々を歓迎し、迎えに行き、村から村へと移動し、人々を癒します。しかしイエスにとっては何かをするかよりも、まず何よりも最も大切なことは長く祈ることです。イエスが大勢の人を癒し、立ち直らせる理由は、癒された彼らが苦しんでいる人々に近くなって助ける者となるためです。

 長く祈るイエスは、また私たちに祈りの大切さを教えています。事実、祈りは人を神の内に新たにさせ、隣人を助け、彼ら自身が他の隣人に救いの手を伸ばすエネルギーを与えます。癒されたシモン・ペトロの姑は、すぐイエスと彼の弟子たちの世話をしました。イエスが彼女に手を伸ばして助けたので、姑も自分の家にいる他の人々に手を伸ばして助けました。恵みを受けた姑は、心を開いて人々のもてなしをします。キリストの祈りの結果が、彼に癒された人の反応の内に発見できす。これこそ、神の国の理論的な働きです。イエスの救いのお陰で、人々は周りの人々に向かい、「だれに対しても自由になって、より多くの人を獲得するために」、すべての人の世話する人になります。これこそ私たちに委ねられた使命です。この使命を熱心な祈りに包んで果たしましょう。

 イエスを通して神は全人類にとても近い者なりました。神の唯一の目的は、人間を悪のあらゆる形から救い、癒し、立て直させることです。そういう訳で、イエスの後に歩みたい人はどうしてもあらゆる面で癒されることを承諾しなければなりません。それは、祈りと礼拝を通して神に感謝するため、そして同時に隣人の世話を効果的に行うためです。このことを知ることだけでも、私たちにとって喜びと光の溢れる泉となるはずです。

 ヨブは、叫びながら苦情を言いながらも、耐え忍んで言い表せない苦しみに意味を見つけようとしました。イエスは、苦しみについて何一つ説明をしませんでした。苦しみは説明できません、と言うのも苦しみは深い神秘ですから。キリスト者になったある人は次のように証ししました。「キリスト者になることで、私は全く意味のない世界からとても神秘的な世界に連れて行かれました」と。確かに、イエスは苦しみを説明するよりも、苦しんでいる人にご自分の現存をもたらしました。悪に対するイエスの答えは、世界の苦しみを自分が背負うことです。聖パウロが望んでいたことを、先にイエスが完全に実現しました。イエスは「だれに対しても自由になって、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました」。

 こんにちイエスは私たち一人ひとりに次のように言います。「恐れることはない、私はそばに居る」、「あなたの信仰があなたを救った」、「さあ、立って、歩きなさい」、「私の後に来なさい」、「あなたも、だれに対しても自由になりなさい。より多くの人を獲得するために 弱い人々には、弱い者になりなさい。すべての人に、すべてのものとなりなさい」と。これこそ教会と私たちの使命です。ですから聖霊が私たちを導き、私たちを強めるように願いましょう。私たちの愛に満たされた現存が大勢の人に対して慰めと喜びになり、彼らの苦しみを和らげますように。アーメン。

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      年間第6主日  B 年 2021年ン214   グイノ・ジェラール神父

           創世記3,16-19  1コリント10, 31–11,1  マルコ 1,40-45

 「私はキリストを見ならっている」と聖パウロは宣言すると同時に「私を見ならってください」と断言します。キリスト教の特徴は、確かにキリストのように考え、話し、行い、愛することです。私たちはこの聖歌(典礼聖歌390番「キリストのように考え」)を歌うことがとても好きですが、その教えを実行するのは至難の業ではないでしょうか。

 イエスは願い求める人のそばに来て、癒しの恵みを願った病者に触れることをれませんでした。そうすることで、イエスは聖パウロの実行したことを既に完全に実現しました。「自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも」(参照1コリント10, 33)、「すべての人に対してすべてとなりました」(参照:1コリント9,22)。そういう理由で、イエスは律法と安息日の規定を破りました。イエスにとって大切なのは、神の似姿で創られたのに悪の力によって変形されてしまった人間です。イエスは「律法が役に立たない」と決して言いませんが、律法が人々の間で差別を起こしていることをよく知っています。

 律法によると病人は人々から遠く離れなければいけません。しかし、その病人が自分のそばに来ることをイエスは許しました。それどころかイエスは深く憐れんで、手を差し伸べ病者に触れました。その結果イエスは「不潔な者となって」一週間以上、公に町々に入ることができず人離れた場所に退かなければなりませんでした。この悲劇的な状況を律法下の人々は毎日体験しています。今も当時と同じように新型コロナウィルスに感染した人は、社会生活から追い出されて、親しい人からも離されてしまいます。

 私たちがどんな悪の影響を受けても、神は私たちを清め癒すために必ず手を差し伸べています。それは丁度、システィーナ礼拝堂のミケランジェロのフレスコ画が示すように、神の手は人を清め、癒し、強め、新たにします。私たちもシスティーナ礼拝堂の天井画に描かれたアダムのように神の方へ自分の手を差し伸べるなら、必ず、自分の内に新しい創造が始まるのです。

 キリスト者として生きるには 祈り、共感、慈しみは不可欠で必須です。これらのことを実践して、キリストを模範としてイエスに倣うのです。人間を傷つける事は、神ご自身を傷つける事だと知るなら、私たちもこの面で敏感にならなければなりません。悪や病気や苦しみに直面したときには、私たちは憐れみや慈しみの武器をもって、対応するべきです。なぜなら愛だけが人間の内に神の似姿を再建することができるからです。

 さて、近いうちに私たちは四旬節に入ります。私たちにとってこの時は、キリストをもっと真似る時になる期間です。私たちの友情と助けを必要とする人にもっと近寄りたいと思います。そして、キリストを真似て、時々人里離れた所へ行き、あるいは自分の部屋の奥に入って、祈ること、神と親密に話すことを深めてはどうでしょうか。特に今は新型コロナウィルスから解放されるように神に願いましょう。世界を混乱させるこの伝染病はすべての国民だけではなく、人間の社会的な生き方をあらゆる面で破壊するからです。神が一日早く私たちの方へ救いの手、慈しみ深い手を差し伸べますように。 アーメン。

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   年間第11主日 B 年  2021613   グイノ・ジェラール神父

      エゼキエル17,22-24     2コリント5,6-10    マルコ4,26-34

 イエスのたとえ話から「神の王国」は「愛の王国」です。この愛は「与えられた聖霊によって、わたしたちの心に注がれています」(ローマ 5,5)。愛の種が人間の心に蒔かれたなら、神の王国は自分の力で成長し続けます。畑に蒔かれた種は自分の活力を持っているので、種の成長は人間の力を必要としません。神の王国についても全く同じです。この事実を知ることで、私たちの信仰と神への信頼が養われ、強められます。

 しかし、そうは言ってもまだ疑いが残っているかも知れません。なぜなら神の国には多くの妨げが襲ってきています。あちらこちらで神の国が否定され、迫害を受けています。また他の場所では神の国が全く知られていない、あるいは、キリスト者たちの怠慢と無関心のせいで神の国が真っ向から反対されています。しかし、そういう妨げにもかかわらず、神の国はずっと成長し強くなり続けます。確かに、私たちが「御国が来ますように」というイエスが教えた祈りの言葉を祈るたびに、私たちは神の王国の成長の助けに必要なものを与えています。私たちの怠惰、過ち、疑いと罪にもかかわらず、聖パウロが言ったように「わたしたちはいつも心強いので....目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」(参照:2コリント5,6-7)と。ですから忍耐を持って、私たち自身と世界のうちに実現されている神の働きに対して疑いを持たないようにしましょう。

 私たちが信仰のうちに成長すればするほど、神の王国も一緒に自分の成長に応じて拡大します。収穫の時がま先だと思っても、必ずいつかそのようになることについて確信を持っています。しかし、信頼を失わないようにするにはどうしたらいいでしょうか。預言者エゼキエルが神の働きの方法について教えているので、そこから光を受けたいと思います。神は柔らかい若枝を折って、土に植えます。それは大きな強い木になるためです。またいつか空の鳥が枝の陰に住むことができるためです。ですから私たちは神に揺るぎない信頼を示すのです。心配することも、心を乱すことも必要ではありません。「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、誰も知らない」。私たちの内にまたその周りに、人が全く知らない時にそよ風のように神は目立たないやりかたで働いています。

 心配や悩みを抱くよりも、神が自由に好きなように、私たちの内にご自分の愛の国を実現されるのを邪魔しないようにしましょう。私たちができることは、神の業を信じて、神の愛の神秘、つまり神の王国が自分の内に成長することを感謝することだけです。私たちが日常生活を通して示す愛赦し眼差し聞き方分かち合いによって、神の国の建設を支えています。たとえ、それを見なくても、またそれを感じなくても。

 聖パウロは思い起こさせました。「キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ、悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」。キリストの裁きは、報いや罰を与えません。キリストの裁きによって私たちの良い業がはっきりと照らされています、それは私たちの悪い業が良い業のお陰で許されるためです。「神の国が近い」(参照:マルコ1,15) 、「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ 6,33) とイエスは言いました。

 ですから、私たちの内に成長する神の国の建設を邪魔しないように気を付けましょう。そして私たちの永遠の救いと幸せのために絶えず私たちを大切にし、養い、恵みで満たす神に感謝したいと思います。 アーメン。

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     年間第12主日  B年  2021620   グイノ・ジェラール神父

       ヨブ記 38,18-11    2 コリント5,14-17   マルコ 4,35-41

 イエスと彼の弟子たちはやっと群集から離れることができました。今、彼らは非常に荒れた湖の真ん中にいます。イエスは弟子たちの直ぐ傍で眠っていました。イエスの深い眠りはご自分を満たす神の平和を現しています。確かにこの眠りはとても不思議です。たけり狂う波よりも神の強い力を持っていなければ、一体だれが嵐の時や台風の時、危険が迫る時に眠ることができるでしょうか。危険を冒す人は決して眠ることができません。しかし、一日中休むことなく、群衆を癒したり、教えたりしたイエスは、今、神の内憩いを深く味わっています


 イエスは眠っています。弟子たちは目覚めていて危険に怯えていますが、彼らの信仰は眠っていました。弟子たちは大波と強い風を恐れているので、イエスの眠りを通して示された神の平和と安らぎを見抜くことができませんでした。イエスのうちの眠っている(表面に見えている)人しか見ていませんでした。そのために叫びながら、危険から救われるようにイエスを起こします。イエスに対する弟子たちの信頼があっても、彼らの信仰は消えていました。


 そこで目覚めたイエスは、弟子たちを力づけ、そして彼らの信仰を生み出すために湖と風を咎めます。あっという間にすべては静かになりました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と弟子たちに尋ねても、イエスは弟子たちから何一つ返事をもらいませんでした。マルコは「弟子たちは非常に恐れていた」という理由でこの出来事を説明しました。確かに弟子たちはイエスのうちに神の創造の力を見ました。「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言い合いました。

 湖が荒れる前にイエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われました。嵐を静めることでイエスは弟子たちを荒れ狂う大自然の「恐怖の岸」からご自分を満たしている「神の神秘への畏敬の岸」に導きました。また、イエスは嵐から逃れるための弟子たちの「絶望的な努力の岸」から「とても静かな神の現存の岸」へ連れて来ました。「風はやみ、すっかり凪になった」とマルコは証ししています。静けさは疑う余地のない神の現存のしるしです。イエスは恐れていた弟子たちにご自分の内面的な平和を与えよとしました。確かに、起きていても、眠っていても、イエスは弟子たちと共にいて、彼らに信頼と希望、そして揺るぎない信仰を与えようとします。

 実際、イエスは眠りません。私たちの間にいてイエスは眠ることができません。詩編121,4節が教えている通り「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない」と。私たちが平和と信仰の内に、人生の試練と悩みの時を乗り越えることができるようにイエスは一緒にいてくださいます。

 ですから、自信を失う時、何をしたらよいか全く分からない時、自分が見捨てられていると感じる時に、恐れずに、一日も早く救われたい希望と耐えられない恐怖から神に向って叫びましょう。その状態で、信仰をもって神が私たちに恐れ、疑い、不信から解放し、私たちが「生きる喜びと平安」を取り戻すように願いましょう。確かに預言者エレミヤが言ったように「私たちを救うために、神は一緒におられます」(参照:エレミヤ1,8)。アーメン。

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